会津藩主松平氏初代。肥後守、左近衛中将。幼名幸松。
慶長十六年(1611)江戸幕府2代将軍徳川秀忠と、側室・お静(志津)の間に生まれ、3代将軍家光、駿府城主徳川忠長を異母兄に持つ。秀忠が恐妻家であったため江戸城に入ることを許されず、元和元年(1615)信濃国高遠藩主保科肥後守正光の養子となった。元和八年(1631)正光の死に伴い高遠3万石の藩主となった。その後家光が異母弟であることを知り、同13年(1636)出羽国山形20万石、二十年(1643)には会津23万石の領主として重用された。
家光の死後、正之は幼少の4代将軍家綱の補弼役となり、会津の国許へ帰ることなく善政を施した。その中でも三大美事と称えられたのが、末期養子の禁の緩和、殉死の禁止、大名証人(人質)制度の廃止である。また民政に於いても、玉川上水の開削や、明暦の大火で焼失した江戸城天守閣を町屋を優先すべしとして再建しなかったなど、優れた決断力を発揮した。
会津藩政に於いては、自分の精神が末永く伝わることを願い「家訓(かきん)」十五ヶ条を制定し、幕府・徳川将軍家に対する絶対の忠誠を義務づけた。江戸末期、9代藩主松平容保が火中の栗を拾うごとき京都守護職を拝命した背景に、この家訓があった事は有名である。
正之が祀られた土津神社境内には、生前の事績などが彫られた日本一大きな石碑が建てられている。その台座は「あお」という亀に似た中国の伝説の動物であるが、建てられた当初は猪苗代湖に向かって造られたとされる。しかし一夜にして猪苗代の湖中へ這い出してしまったため、現在のように山へ向かって造り直されたという伝説がある。 |