会津藩家老。
就任当時、会津藩領内は度重なる飢饉や政策の失敗により困窮していた。また太平の世が続いたため武士の気は緩み、風紀が乱れていた。
玄宰は5代藩主松平容頌の信任を得、藩政改革に乗り出した。その中で特に重視したのは学制の改革であり、それは「国の発展の基礎は人材の育成、すなわち教育にあり」との考えからであった。そして寛政十一年(1799)より5年の歳月をかけ、完成したのが、日本でも有数の規模・内容を誇る藩校日新館であった。
玄宰は日新館が完成した6年後の文化五年(1808)に没するが、遺言によって若松城・日新館の見える小田山山頂に埋葬された。玄宰の死後も、会津藩士たちのなかに彼の思想は生き続け、会津士魂として受け継がれていった。 |