新選組幹部で、山口一、次郎、二郎とも、後に一戸伝八、藤田五郎。
天保十五年(1844)幕府御家人山口祐助の次男として江戸に生まれた。父祐助は明石藩足軽出身で、妹に家督を譲り江戸へ出て、後に御家人株を買った人物とされる。幼少の頃から剣の腕は天才的だったとされ、文久二年(1862)旗本を口論の末殺害してしまい京都へ逃れた。ちょうどその頃、江戸で募集されて京都へ上洛した浪士組の現地募集がありこれに参加、芹沢鴨、近藤勇らが京都残留を主張すると同調し、新選組結成の母胎の一人となった。
結成当初は副長助謹で、元治元年(1864)の池田屋騒動では土方歳三に属し、池田屋到着後は屋内で戦闘し褒賞金17両を受け取っている。そして同年十二月の編成では四番組長、翌慶応元年の編成では三番組長とともに剣術師範となっている。その剣は敵だけではなく同志の粛清にも向けられ、慶応二年(1866)祇園石段下での谷三十郎殺害、翌年の竹田街道銭取橋での武田観柳斎殺害で発揮されている。
慶応三年(1867)伊東甲子太郎が新選組から分離し、禁裏御陵衛士として高台寺月真院に移ると、近藤勇の密命により間者として同行した。伊東らの動きは斎藤の働きで新選組にすべて知られ、伊東一派に近藤暗殺の動きがあるとそれを報告して逐電、後に伊東は新選組の手で殺害され、斎藤は復帰した。
慶応四年(1868)鳥羽伏見の敗走後江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊の勝沼敗走後、流山で近藤勇が西軍に投降したため、隊士を連れて会津へ向かう。会津では山口次郎を名乗り、隊長として白河城攻防戦などに参加している。その後別行動をとっていた土方歳三と合流するが、会津藩が母成峠で敗戦し、敗色が濃厚になると、二人の意見は対立する。旧幕府軍らとともに仙台行きを主張する土方に対し、今までこれほど会津藩の恩を受けながら、落城寸前の会津を見捨てて行く事はできないとし、20名ほどの同志と共に会津へ残留した。しかし数日後、斎藤らが布陣した若松郊外の如来堂を西軍が急襲、斎藤のほか、池田七三郎、久米部正親、吉田俊太郎など数名を残してほぼ全滅する。
会津戦争終結後、会津藩士一戸伝八を称して斗南へ配流されるが、明治三年(1871)頃には東京へ戻り、各地の不平分子らと放浪生活をしていたという。後に元会津藩大目付高木小十郎の娘時尾と結婚して藤田五郎を名乗り、初代警視総監川路利良自らのひそかな誘いに応じて警視庁へ入庁した。明治十年(1877)西南戦争の時には豊後口に出征、大手柄を挙げ当時の新聞に記載されている。
その後警部補、巡査部長を歴任した後退職、東京教育博物館、女子高等師範学校の警備の任につき、大正四年(1915)九月二十八日東京で没した。 |