会津藩家老。通称権兵衛。
松平容保が京都守護職を勤めている間は国家老として国内を治め、戊辰戦争が始まった後は城外にあって籠城する若松城内に兵糧を送るなど、会津藩を支えた人物であった。
会津藩降伏後は、容保を継いだ藩主喜徳に従って東京へ行き久留米藩邸にて謹慎、明治政府に対して藩主父子の助命嘆願に努める。その結果政府の下した処置は、容保、喜徳父子の罪一等を減じる代わりに、戦争首謀者3名を処分するというものであった。そこで会津藩は家老の席順から選ぶ事としたが、上席の家老であった田中土佐、神保内蔵助は既に自刃し、西郷頼母は行方知れずとなっていたため、次席の長修が自ら進んで会津藩の責任を一身に背負う事となった。そして明治二年(1869)五月十八日、飯野藩保科氏の広尾別邸に於いて自刃、享年40歳であった。
死に際して長修は、会津藩伝来である一刀流溝口派の奥儀が絶えるのを惜しみ、竹の火箸で井深宅右衛門に伝授したという。
会津の某観光施設に勤務していたわたしは、「萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正は、会津の人間は決して忘れてはならない人物」としてお客様に説明していたモノでしたが…、実態としてはかなり忘れられています(T^T)
もちろん顕彰に努めている方も大勢いらっしゃいますけどね…。ここで会津の観光について持論を展開しても仕方ない(し叩かれるのもイヤな)ので、何も申しませんけどね。会津が好きで、10年以上会津に住んでても所詮余所者扱いですから(いかん、愚痴になってしまった)。 |