萱野長修
天保元年(1830)−明治二年(1869)
萱野長修の墓 会津藩家老。通称権兵衛。
 松平容保が京都守護職を勤めている間は国家老として国内を治め、戊辰戦争が始まった後は城外にあって籠城する若松城内に兵糧を送るなど、会津藩を支えた人物であった。
 会津藩降伏後は、容保を継いだ藩主喜徳に従って東京へ行き久留米藩邸にて謹慎、明治政府に対して藩主父子の助命嘆願に努める。その結果政府の下した処置は、容保、喜徳父子の罪一等を減じる代わりに、戦争首謀者3名を処分するというものであった。そこで会津藩は家老の席順から選ぶ事としたが、上席の家老であった田中土佐、神保内蔵助は既に自刃し、西郷頼母は行方知れずとなっていたため、次席の長修が自ら進んで会津藩の責任を一身に背負う事となった。そして明治二年(1869)五月十八日、飯野藩保科氏の広尾別邸に於いて自刃、享年40歳であった。
 死に際して長修は、会津藩伝来である一刀流溝口派の奥儀が絶えるのを惜しみ、竹の火箸で井深宅右衛門に伝授したという。

 会津の某観光施設に勤務していたわたしは、「萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正は、会津の人間は決して忘れてはならない人物」としてお客様に説明していたモノでしたが…、実態としてはかなり忘れられています(T^T) もちろん顕彰に努めている方も大勢いらっしゃいますけどね…。ここで会津の観光について持論を展開しても仕方ない(し叩かれるのもイヤな)ので、何も申しませんけどね。会津が好きで、10年以上会津に住んでても所詮余所者扱いですから(いかん、愚痴になってしまった)。
所在地 : 福島県会津若松市天寧(天寧寺)
河井秋義
文政十年(1827)−慶応四年(1868)
河井秋義の墓 長岡藩家老、軍事総督。通称継之助、号は蒼龍窟。
 長岡藩の近代化を推し進め、全国でも屈指の近代的軍隊を作り、戊辰戦争では武装中立の立場を取ろうとした。その上で会津藩や奥州列藩の救解を図ったが、西軍軍監岩村精一郎との小千谷会談は決裂、戦いを決意し奥羽越列藩同盟に参加した。
 河井率いる長岡藩兵は、その巧みな用兵と近代的な軍事力もあり、朝日山、榎峠などの合戦では西軍を撃退した。しかし兵力差は如何ともし難く、徐々に西軍によって押され初め、ついに長岡城は陥落した。
 長岡城奪還を図る河井は、湿地帯であった八丁沖の渡沼作戦を実行、見事に奪還を果たすも、脚に銃弾を受けて戦線を離脱する。西軍の再攻勢により再び長岡城が陥落すると、長岡勢は八十里峠を越えて会津領内へ落ち再起を図るが、その最中河井は脚に受けた傷が元で塩沢の矢沢宗益宅で死亡した。
 その後長岡藩は戦争首謀者として継之助の名を提出、家名は断絶となったが、明治十六年許されている。

 通称である継之助の名の方が有名ですけどね、取り敢えず諱で。継之助というのは幼名で、当主は代々代右衛門を襲名していたらしい。福島県只見町には河井記念館があり、館内に臨終の間が移築されていたり、ガットリング機関銃のが模型が置かれていたりします。当時地元長岡では、結果的に長岡を荒廃させた人物として恨まれたとされ、その評価は現代でも二分されているようですが…、司馬遼太郎の「峠」を読むと、その生き方に惚れます。もう最初に読んでから二十年も経つなぁ。
所在地 : 福島県南会津郡只見町

雲井龍雄
弘化元年(1844)−明治三年(1870)
雲井龍雄の墓 戊辰戦争が終わった後の明治二年(1869)、その才能を高く評価された雲井龍雄は、衆議院寄宿生に選ばれた。そこで多くの意見書を提出するが、薩摩・長州を中心とする明治政府内では取り入れられず、逆に退去させられてしまう。
 そこで龍雄は、新政府に不満を持つ者を集めて基準部曲点検所を組織し、新政府に対抗した。しかしこの決起行動により内乱罪で逮捕されてしまう。そして厳しい取り調べの結果斬首となり、首は小塚原で晒された。
 遺体は東京都荒川区の回向院に葬られ、その後頭骨は谷中の天王寺に改葬された。また米沢でも遺族が遺髪を持ち帰り、菩提寺である常安寺に墓を建立した。そして昭和五年、龍雄の六十回忌に際し、米沢の有志が遺骨を米沢に帰すことに尽力し、天王寺より常安寺へ頭骨が改葬されている。
所在地 : 山形県米沢市城南5(常安寺)

郡長正
安政三年(1856)−明治四年(1871)
郡長正の墓 会津藩家老萱野権兵衛長修の次男。幼名乙彦。
 長正は幼少より文武両道に秀で、将来を大いに嘱望されていた少年だった。しかし戊辰戦争の敗戦の後、父長修が会津藩の戦争首謀者として責任を一身に被り自刃、萱野氏は断絶となったため、母方の旧姓(母の旧姓と言われているが旧姓は一瀬だったはず?)の郡姓を称した。
 戦争後取り潰しとなった会津藩だったが、藩主父子の罪一等は減ぜられ、明治二年(1869)には青森県下北郡に斗南藩3万石として立藩を許された。しかし当時辺境であった斗南の地では、将来の藩政を担う人材の育成が不可能であったため、藩首脳部は優秀な人材を北九州豊津藩の藩校育徳館へと留学させる事となった。そして当時14歳の長正を含む7名の少年が、留学生として派遣された。
 長正は7名中最年少であったが、すぐにその才能を発揮、文武にわたってメキメキと頭角を現す。しかしそんな中、長正は慣れない環境、不自由な留学生活もあり、母へそのひもじさを綴った手紙を送った。そんな長正に返って着た母の手紙は、「会津武士の子どもが空腹を嘆いて手紙を送ってよこすとは見下げた果てた根性、そんな子を自分の子とは思わない、萱野権兵衛の子ではない」という様な厳しい叱責だった。長正はこれを大いに恥じ、以降は空腹を嘆く事もなく、文武の道に励んだ。
 ところがある日、長正はこの母からの叱責の手紙をうっかりと落としてしまい、その内容は同行した仲間、地元の生徒たちに知れ渡った。優秀だった事もあり、嫉まれてもいた留学生たちは、「会津の武士道とは餓鬼道か」と散々に嘲られ、その原因となった長正は仲間からも疎まれてしまう。
 そして明治四年(1871)五月十八日、悲劇は起きた。長正は自らの恥ずべき振る舞いを償うため、一人自室で腹を切り、会津武士の誇りを守ったのである。恥を知り、「ならぬことはならぬ」の日新館教育を実践した長正は、わずか16歳の少年だった。

 郡長正の自刃についての真相は諸説紛々ですが、おおよそ上記の様な説が主流となっています。非常に掻い摘んで書いてありますけどね。郡長正について書かれた本は沢山ありますが、うーん…、豊津藩の子弟が非常に根性悪に思えるものも沢山ある…。現在は豊津の方々の方が、よっぽど彼のことを顕彰してくれてると思いますけどねー(行ったことないけど)。“諸説紛々”とした中には、一緒に同行した仲間の方が酷かった、なんて話も聞いたことがあったもので。
所在地 : 福島県会津若松市天寧(天寧寺)
近藤勇
天保五年(1834)−慶応四年(1868)
近藤勇の墓(隣は土方歳三の墓) 新選組局長。大久保剛、猛、大和とも。幼名勝五郎、次いで勝太。
 天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村の百姓宮川久次郎の三男として生まれる。
 嘉永元年(1848)天然理心流宗家近藤周助の門人となり、翌年周助に望まれて周助の生家島崎家の養子となる。そして文久元年(1861)天然理心流四代目宗家を襲名した。
 文久三年(1863)幕府の募集に応じて浪士組に参加、上洛するが、浪士組の江戸帰還が決定すると、芹沢鴨らに同調し京都残留を希望して会津藩預壬生浪士組の一員となる。新選組誕生後は芹沢、新見錦と共に局長となるが、粗暴な振る舞いの多かった芹沢、新見錦らを粛清している。新選組の勇名を一夜にして轟かせた元治元年(1864)の池田屋騒動では、隊士9名を率いて屋内で戦闘し褒賞金30両を受けている。
 慶応四年(1868)の鳥羽伏見合戦は、元同士であった篠原泰之進、阿部十郎の襲撃によって受けた銃創のため参加できず、海路江戸へ下る。その後若年寄格となり、大久保剛と称して甲陽鎮撫隊を組織し甲府城接収に赴くが、勝沼合戦で敗走する。そして大久保大和を称して五兵衛新田で隊士を募り、下総国流山で新選組の再編成を企てるが、西軍の奇襲により陣屋を包囲される。土方の助言もあって近藤一人が投降するが、板橋の西軍本営で薩摩軍に属していた元同士の加納鷲雄(道之助)に看破され、慶応四年四月二十五日斬首される。
 会津若松市の天寧寺にある墓碑は、会津へ転戦していた土方歳三が建立したものとされ、戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」といい、会津藩主松平肥後守容保より授与されたものである。
所在地 : 福島県会津若松市東山町石山(天寧寺)