蘆名盛氏
大永元年(1521)−天正八年(1580)
蘆名盛氏の墓(奥は盛隆の墓) 会津黒川城主蘆名氏16代。隠居して止止斎と号した。
 蘆名氏15代盛舜の子で、黒川城(若松城)主となった。会津地方北部に分かれて代々抗争を繰り返していた一族をまとめ上げ、戦国大名として最盛期を築いた名将。その版図は会津地方全域から、福島県信夫・安達・岩瀬・田村・石川・白河郡、さらに新潟県蒲原郡にまで及んだ。
 しかし跡を継いだ盛興・(二階堂)盛隆・亀王丸らが早世、そして常陸国太田城主佐竹氏より迎えられた20代義広が磐梯山麓摺上原の合戦で伊達政宗に敗れ、三浦佐原氏の流れを汲む名族蘆名氏は滅亡した。

 小田山の麓・花見ヶ森御廟に盛氏・森興・盛隆の墓があり、また小田山公園内には、蘆名氏2代光盛から8代詮盛までの廟所である寿山廟がある。
所在地 : 福島県会津若松市花見ヶ丘(花見ヶ森御廟)
阿部内膳
阿部内膳の墓 奥羽越列藩同盟に参加した棚倉藩家老で、阿部正脩(秋風)の子。戊辰戦争では白河桜町口を守備した。
 古式の甲冑に身を固め、槍や弓矢で戦う十六人組の隊長であり、「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と西軍に恐れられた。ちなみに仙台烏とは細谷十太夫率いる衝撃隊(通称烏組)であり、十六ささげとは豆の一種で十六人組を指した。
 白河金勝寺にて敵弾のため戦死し、戊辰戦争後の明治二年(1869)に棚倉藩の反逆首謀者とされた。
所在地 : 福島県白河市

猪野忠敬
天保十二年(1841)−明治四十三年(1910)
猪野忠敬の墓 新選組隊士、在籍時は久米部正親と称する。
 天保12年(1841)大坂にて生まれ、慶応元年(1865)新選組に入隊、のち伍長となる。
 会津戦争では母成峠での敗走後本隊と別れ、山口二郎(斎藤一)、稗田利八(池田七三郎)らと共に如来堂を守備するが、西軍の襲撃によって敗走する。その後稗田らと銚子にて捕縛、東京へ護送され謹慎する。 謹慎後は陸軍に出仕して中尉となり、明治十九年(1886)に退官した。明治四十三年(1910)仙台にて死去。

 側面に「猪野忠敬」の名があるんですが、見えないですね。
所在地 : 宮城県白石市中町(専念寺)
色部久長
文政七年(1824)−慶応四年(1868)
色部久長碑 米沢藩家老。色部長門。
 戊辰戦争に於いて奥羽越列藩同盟の盟主となった米沢藩は、越後方面の警備担当となり、久長を総督に任じ藩兵約600を出陣させた。久長は関屋に本陣を置き、同盟戦略上の要地である新潟港の守備に当たったが、戦況は次第に西軍寄りとなり、ついに新潟港にも薩摩藩の大軍が押し寄せた。そのため久長は同盟軍に撤兵を命じ、自ら指揮する米沢軍は最後に出発した。しかしその途中薩摩軍と遭遇戦となり、逃げては米沢藩の名誉にかかわるとして大軍に切り込み、ついに壮絶な戦死を遂げた。
 その後明治二年(1869)、米沢藩は苦慮の末戦争首謀者として久長の名を届け、名門色部家は家名断絶となった。それが許されたのは明治十六年(1883)である。
所在地 : 米沢市丸の内1

上杉家廟所
上杉家廟所 米沢藩主上杉家歴代の廟所。
 元和九年(1623)3月20日上杉景勝死去の際、廟所として造られ、上杉謙信から12代斉定まで埋葬されている。昭和59年には国指定史跡となっています。
所在地 : 米沢市御廟

小栗忠順
文政十年(1827)−慶応四年(1868)
小栗忠順・養子又一の墓 江戸幕府最後の勘定奉行。豊後守、上野介。
 文政十年(1827)江戸にて誕生。小栗家は旗本として代々徳川家に仕え、上野国、下野国などに2700石を領していた。
 安政六年(1859)、大老井伊直弼より通商条約締結のため渡米を命じられ、ワシントンで大統領に謁見、条約の調印にこぎつけた。当時は攘夷論が幕府内の風潮となっていたが、忠順は海外との貿易、開国の思想をもっていた。帰国後の文久二年(1862)勘定奉行に任命され、以後4度勘定奉行を務め、その他外国、陸軍、軍艦奉行なども歴任した。そして横須賀製鉄所や仏語学校の建設、陸軍伝習所などを開き、日本の近代化に大きな足跡を残した。
 慶応四年(1868)戊辰戦争が勃発すると、西軍に対して主戦論を唱えるが受け入れられず、職を罷免されて所領の上野国権田村(倉渕村)に退いた。しかしその実力に不安を持つ西軍により捕らえられ、斬首となった。また翌日、養子である又一も高崎城内にて殺害されている。

 知行地である権田村へ退いた際、行列に多くの荷物があり、また江戸城の御金蔵が空っぽになっていたということで、徳川埋蔵金伝説が生まれたそうです。まだ穴掘ってるんですかね?
所在地 : 群馬県群馬郡倉渕村(東禅寺)
おけい
生年不詳−明治四年(1871)
おけいの墓 日本初の女性移民。確証はないが、会津若松市内、材木町の桶屋の娘といわれている。
 慶応三年(1867)会津藩の軍事顧問となり、藩主松平容保より平松武兵衛の名を賜ったプロシア人、ヘンリー・シュネルの子守りだった。シュネルは戊辰戦争で敗れた後、藩士や領民を連れて北米移民団を組織し、17歳のおけいもそれに加わってカリフォルニア州ゴールドヒルへと渡った。しかしこのワカマツコロニーは失敗に終わり、シュネルは家族と共に消息を断った。おけいは近隣のビアカンプ家に引き取られ、子守りとして働きながら生活するも、明治四年(1871)熱病によってこの世を去った。19歳だったという。
 大正四年(1915)カリフォルニア在住の記者、竹田文治郎によって「OKEI」と刻まれた墓が紹介され、日系人からの多くの関心を集めた。このゴールドヒルに残っている墓は、おけいと共にビアカンプ家に引き取られ、67歳で亡くなった旧会津藩士、桜井松之助によって建てられたものである。
 遠く故郷を離れた異国の地で亡くなったおけいを偲び、昭和三十二年、故郷を望む若松市の背炙山に同型の墓が建てられ、墓所周辺は黄金丘(こがねがおか=ゴールドヒル)と名付けられている。

 会津若松市の東山温泉から猪苗代湖畔へ抜ける背炙高原、会津東山自然休養林の一角に所在します。またこの道路を奥州仕置の際に豊臣秀吉が通り、若松城下へ入った事から、山頂一帯は関白平と名付けられています。
 おけいやヘンリー・シュネルは、去年(平成十七年)に『世界ふしぎ発見』(かな?)で取り上げられたので、覚えている方もいらっしゃるかな…?
所在地 : 福島県会津若松市東山町湯本(会津東山自然休養林、史跡関白平)